「夜明け前」に登場する松尾多勢子


島崎藤村の「夜明け前」には「(松尾)多勢子」が13回出てくる(青空文庫版使用;ルビ省略)。

(1) 半蔵の周囲には,驚くばかり急激な勢いで,平田派の学問が伊那地方の人たちの間に伝播し初めた。飯田の在の伴野という村には,五十歳を迎えてから先師没後の門人に加わり,婦人ながらに勤王の運動に身を投じようとする松尾多勢子のような人も出て来た。おまけに,江戸には篤胤大人の祖述者をもって任ずる平田鉄胤のようなよい相続者があって,地方にある門人らを指導することを忘れていなかった。一切の入門者がみな篤胤没後の門人として取り扱われた。決して鉄胤の門人とは見なされなかった。半蔵にして見ると,彼はこの伊那地方の人たちを東美濃の同志に結びつける中央の位置に自分を見いだしたのである。賀茂真淵から本居宣長,本居宣長から平田篤胤と,諸大人の承け継ぎ承け継ぎして来たものを消えない学問の燈火にたとえるなら,彼は木曾のような深い山の中に住みながらも,一方には伊那の谷の方を望み,一方には親しい友だちのいる中津川から,落合,附智,久々里,大井,岩村,苗木なぞの美濃の方にまで,あそこにも,ここにもと,その燈火を数えて見ることができた。(第一部第五章三)

(2) 半蔵が年上の友人,中津川本陣の景蔵は,伊那にある平田同門北原稲雄の親戚で,また同門松尾多勢子とも縁つづきの間柄である。この人もしばらく京都の方に出て,平田門人としての立場から多少なりとも国事に奔走したいと言って,半蔵のところへもその相談があった。日ごろ謙譲な性質で,名聞を好まない景蔵のような友人ですらそうだ。こうなると半蔵もじっとしていられなかった。(第一部第五章五)

(3) そればかりではない。京都麩屋町の染め物屋で伊勢久と言えば理解のある義気に富んだ商人として中津川や伊那地方の国学者で知らないもののない人の名が,この正香の口から出る。平田門人,三輪田綱一郎,師岡正胤なぞのやかましい連中が集まっていたという二条衣の棚――それから,同門の野代広助,梅村真一郎,それに正香その人をも従えながら,秋田藩物頭役として入京していた平田鉄胤が寓居のあるところだという錦小路――それらの町々の名も,この人の口から出る。伊那から出て,公卿と志士の間の連絡を取ったり,宮廷に近づいたり,鉄胤門下としてあらゆる方法で国学者の運動を助けている松尾多勢子のような婦人とも正香は懇意にして,その人が帯の間にはさんでいる短刀,地味な着物に黒繻子の帯,長い笄,櫛巻きにした髪の姿までを話のなかに彷彿させて見せる。日ごろ半蔵が知りたく思っている師鉄胤や同門の人たちの消息ばかりでなく,京都の方の町の空気まで一緒に持って来たようなのも,この正香だ。(第一部第六章五)

(4) 聞き伝えにしてもこの年上の友だちが書いてよこすことはくわしかった。景蔵には飯田の在から京都に出ている松尾多勢子(平田鉄胤門人)のような近い親戚の人があって,この婦人は和歌の道をもって宮中に近づき,女官たちにも近づきがあったから,その辺から出た消息かと半蔵には想い当たる。いずれにしても,その手紙は半蔵にあてたありのままな事実の報告らしい。景蔵はまた今の京都の空気が実際にいかなるものであるかを半蔵に伝えたいと言って,石清水行幸後に三条の橋詰めに張りつけられたという評判な張り紙の写しまでも書いてよこした。(第一部第八章二)

(5) その日の泊まりと定められた駒場へは,平田派の同志のものが集まった。暮田正香と松尾誠(松尾多勢子の長男)とは伴野から。増田平八郎と浪合佐源太とは浪合から。駒場には同門の医者山田文郁もある。武田本陣にあてられた駒場の家で,土地の事情にくわしいこれらの人たちはこの先とも小藩や代官との無益な衝突の避けられそうな山国の間道を浪士らに教えた。その時,もし参州街道を経由することとなれば名古屋の大藩とも対抗しなければならないこと,のみならず非常に道路の険悪なことを言って見せるのは浪合から来た連中だ。木曾路から中津川辺へかけては熱心な同門のものもある,清内路の原信好,馬籠の青山半蔵,中津川の浅見景蔵,それから峰谷香蔵なぞは,いずれも水戸の人たちに同情を送るであろうと言って見せるのは伴野から来た連中だ。(第一部第十章二)

(6) その日の顔ぶれも半蔵らにはめずらしい。平素から名前はよく聞いていても,互いに見る機会のない飯田居住の同門の人たちがそこに集まっていた。駒場の医者山田文郁,浪合の増田平八郎に浪合佐源太なぞの顔も見える。景蔵には親戚にあたる松尾誠(多勢子の長男)もわざわざ伴野からやって来た。先師没後の同じ流れをくむとは言え,国学四大人の過去にのこした仕事はこんなにいろいろな弟子たちを結びつけた。(第一部第十一章二)

(7) こんなふうで友だちに誘われて行った伴野村での一日は半蔵にとって忘れがたいほどであった。彼は松尾の家で付近の平田門人を歴訪する手引きを得,日ごろ好む和歌の道をもって男女の未知の友と交遊するいとぐちをも見つけた。当時洛外に侘住居する岩倉公の知遇を得て朝に晩に岩倉家に出入りするという松尾多勢子から,その子の誠にあてた京都便りも,半蔵にはめずらしかった。(第一部第十一章二)

(8) 「せめて,あの晩の行列だけは半蔵さんに見せたかった。」と香蔵も言って見せる。「松尾さんのお母さん(多勢子)も京都からわざわざ出かけて来ていましたし,まだそのほかに参列した婦人が三,四人はありました。あの婦人たちがいずれも短刀を帯の間にはさんで,御霊代のお供をしたのは人目をひきましたよ。」(第一部第十二章四)

(9) にわかに同門の人たちも動いて来た。正香の話にもあるように,師岡正胤をはじめ,八,九人の三条河原事件に連坐した平田門人らは今度の大赦に逢って,また京都にある師鉄胤の周囲に集まろうとしている。そういう正香自身も沢家に身を寄せることを志して上京の途中にあり,同じ先輩格で白河家の地方用人なる倉沢義髄,それに原信好なぞは上京の機会をうかがっている。岩倉家の周旋老媼とまで言われて多くの志士学者などの間に重きをなしている松尾多勢子のような活動的な婦人が帰郷後の月日をむなしく送っているはずもない。多勢子とは親戚の間柄にある景蔵ですら再度の上京を思い立って,近く中津川の家を出ようとしている。(第一部第十二章四)

(10) 久兵衛もまた平田門人の一人であった。この人は町人ながらに,早くから尊王の志を抱き,和歌をも能くした。幕末のころには,彼のもとをたよって来る勤王の志士も多かったが,彼はそれを懇切にもてなし,いろいろと斡旋紹介の労をいとわなかった。文久年代に上京した伊那伴野村の松尾多勢子,つづいて上京した美濃中津川の浅見景蔵,いずれもまず彼のもとに落ちついて,伊勢屋に草鞋をぬいだ人たちだ。南信東濃地方から勤王のため入洛を思い立って来る平田の門人仲間で,彼の世話にならないものはないくらいだ。 「この正月になりましてから,伊那からもだいぶお見えでございますな。」
 と久兵衛は縫助に言って見せて,王政復古の声を聞くと同時に競って地方から上京して来るもの,何がな王事のために尽くそうとするものなぞの名を数えた。祭政一致をめがけて神葬古式の復旧運動に奔走する倉沢義髄と原信好,榊下枝の変名で岩倉家に身を寄せる原遊斎,伊那での長い潜伏時代から活き返って来たような権田直助,その弟子井上頼圀,それから再度上京して来て施薬院の岩倉家に来客の応接や女中の取り締まりや子女の教育なぞまで担当するようになった松尾多勢子――数えて来ると,正月以来京都に集まっている同門の人たちは,伊那方面だけでも久兵衛の指に折りきれないほどあった。そう言えば,師の平田鉄胤も今では全家をあげて京都に引き移っていて,参与として新政府の創業にあずかる重い位置にある。(第二部第二章二)

(11) 飛騨の山とは,遠い。しかし日ごろの願いとする斎の道が踏める。それに心を動かされて半蔵は多吉の家に引き返した。動揺して定まりのなかった彼も大いに心を安んずる時がありそうにも思われて来た。とりあえず,その話を簡単に多吉の耳に入れて置いて,やがてその足で彼は二階の梯子段を上って行って見た。夕日は部屋に満ちていた。何はともあれ,というふうに,彼は恭順から借りて来た友人の日記を机の上にひろげて,一通りざっと目を通した。「東行日記,巳五月,蜂谷香蔵」とある。鉄胤先生もまだ元気いっぱいであった明治二年のことがその中に出て来た。同門の故人野城広助のために霊祭をすると言って,若菜基助の主催で,二十余人のものが集まった記事なぞも出て来た。その席に参列した先輩師岡正胤は当時弾正大巡察であり,権田直助は大学中博士であり,三輪田元綱は大学少丞であった。婦人ながらに国学者の運動に加わって文久年代から王事に奔走した伊那伴野村出身の松尾多勢子の名もその参列者の中に見いだされた。香蔵の筆はそうこまかくはないが,きのうはだれにあった,きょうはだれを訪ねたという記事なぞが,平田派全盛の往時を語らないものはない。(第二部第十一章三)


ページ作成日 2005/05/06