この文章は,『翻訳の世界』(1990年8月号)に載せたエッセイ「日本語にならない言葉・フィンランド語篇」の著者原稿である。
京都の方にはたいへん申し訳ない話になるが,先日,久しぶりに訪れた京都の駅の構内キヨスクで, 「おまん」 が売られているのを見て,別の語を連想した私は一瞬自分の目を疑った。
宗教的なものに関係する 「のろい」 のことばや,性に関する 「わいせつ」 なことば (いわゆる 「四文字語」),社会的差異や身体的欠陥などに言及する 「差別語」 など,タブー語はどんな言語にもある。タブー語は,その言語のおかれた文化的背景を抜きにしては理解が難しいが,それでも,宗教的な語や差別語の場合は,理屈や常識に基づく説明が理解の助けになることが多い。しかし, 「わいせつ」 なことばをめぐる文化の違いは, 「理解を超える」 場合が少なくない。
同じ性といっても,男性の性に関する語より,女性の性に関する語のほうが,文化の違いを問わず,一般に,タブー性が高いようだ。最近,ある新聞に,日本のどこかの学校の性教育の教材が,男にも女にも 「おちんちん」 があるとしていることを報じた記事があった。性教育の観点からの是非はともかく,タブー性の高い方を避け,タブー性の低い方で置き換えたこの機転は,実に常識的で,まともである。その逆のことをしたら,たいへんなことになるだろう。
冒頭の単語は, 「うんざりさせる」 「胸くそが悪くなる」 の意味の俗語の動詞で,Mua vituttaa! 「私はうんざりしている」 のように使う。この動詞は,四文字語名詞 vittu がもとになっているが,その他の点では 「堅気」 の動詞と同じ方法でできた動詞なので,まじめな言語学の観点から見ても,ちょっと面白い動詞である。vittu は,お察しの通り,女性の性器を指す俗語で,こちらも Voi vittu! のように使うと,ののしりの表現となる。
もっと面白いのは,女性もこれらの語を口にしうることだ。あるとき,ヘルシンキのバスの中で,若い女性2人の対話を立ち聞きしていて,彼女たちのひとりが vituttaa を使うのを聞いたときは,さすがに驚いた。
だが,考えてみれば,懐にワインのビンを抱えてバスに乗る若い女性の酔っぱらいだっているような, 「男女平等」 のお国柄である。こんなことに驚いた男がいることを知ったら,彼女たちの vituttaa の気持ちはますます高ぶったに違いない。