「外国人流入の阻止 難民を母国に送り返す対策を」 ― 10月初め,1年半ぶりに訪れたヘルシンキの市電の中で見たステッカーである。ドイツなどの場合と比べきわめて 「穏健」 とはいえ,外国人排斥を主張する聞きなれない名前の団体がゲリラ的に貼ったものだ。フィンランド語だからほとんどの外国人は気にもとめなかっただろうが,私には 「森と湖の国」 のイメージを色あせさせるのに十分な文句だった。
80年代中頃までなら,フィンランド語を話す外国人は,フィンランド社会に溶け込もうと努力していると見なされて,好意的な評価を受けるのがふつうであった。ところが,最近は,フィンランド語を流暢に話すと,フィンランド在住の外国人とみなされて,かえってマイナスになる場合が増えてきた。デパートでも,ホテルでも,レストランでも,一時的な滞在者であることを強調して,英語で通したほうが,従業員の応対のしかたがはるかによくなるというのが,今やフィンランドに住む外国人の共通の認識となってしまった。
ここ数年の間に,国内の外国人の数が急激に増え,フィンランド人がとまどっているという事情を考えると,無理からぬところもある。いずれにせよ,経済状態が悪化し,失業率が急上昇した2~3年前を境に,フィンランド人の外国人に対する態度が,目に見えて変わり始めたのは疑いようのない事実である。
70年代から80年代にかけてのフィンランドは, 「北欧の日本」 という異名をとるほどの経済的繁栄を謳歌していた。この時期のフィンランドを知っている日本人は,一様にフィンランドに対してプラスのイメージを抱いてきた。
この経済的繁栄を支えていたのは,この国の対外貿易額の25%をしめていた対ソ貿易である。ソ連邦側が原材料を提供し,フィンランド側が製品や技術を提供するという貿易形態は,1990年12月末にバーター協定が廃止されるとともに終了する。対ソ貿易額は5分の1に急減し,フィンランド経済は大打撃を受けた。
1987年夏から1989年春にかけてフィンランドに住んだとき,換金に有利になるからと,円口座を開いた。この口座は1990年夏にヘルシンキに立ち寄ったときも大いに役立ち,帰国に際し解約を申し出た私に対して,銀行は,そのままにしておくよう勧めてくれた。
半年後の1991年3月,ヘルシンキを訪れた私は,自分の円口座に入金して現地通貨で引き出すと,大幅に目減りすることに気づいた。銀行も,外貨口座は個人向きではないことを強調した。一流ホテルに泊まったが,ホテル・レストラン関係の労働者がストライキ中で,サービスは期待はずれだった。今になって思えば,フィンランド社会の大きな変化はこのときすでに始まっていたわけだ。
現在,フィンランドの失業率は20%に達したと言われる。毎朝,ヘルシンキの救世軍本部の前に,無料で配給されるパンを求める人の列が100メートルに及び,質屋を訪れる人が増えたという。
税金を高くし,個人が自由にできる所得を最小限にすることによって維持される福祉国家では,国民の貧富の差が小さくなり,誰でも比較的高い生活水準を享受できるが,その生活水準が失業によって失われる恐れがないために,個人レベルでの貯蓄の意欲も最小限になる。しかし,国の経済状態が悪化し,福祉制度が崩れはじめると,生活水準の高さを国家に依存していたことが裏目に出て,貯えのない人々が失業とともに貧民層に転落する現象が見られるようになったといえる。
そもそも,国民の福利厚生を国家が全面的に保障することを理想とする福祉国家の考え方そのものが,社会主義思想に歴史的起源をもつということを考えると,福祉国家フィンランドが,対ソ貿易に大幅に依存した経済的繁栄によって維持され,ソ連邦の崩壊とともに危機を迎えたのは,歴史の皮肉というべきかもしれない。
ついこの間まで, 「北欧型福祉社会」 は,フィンランド人の自慢の種だった。今,フィンランド人は 「心の危機」 に見舞われていると,著名な哲学者ニーニルオト・ヘルシンキ大学教授はいう。福祉社会の崩壊によって,国としての自信を失いつつあるからだ。
かつて,思いきり飲んでストレスを解消するのが目的でエストニアにでかけたフィンランド人は, 「ウォッカ旅行者」 と呼ばれてひんしゅくを買った。最近は,税金などの違いからフィンランド製品が半値で買えるエストニアにやってきて,バターなどの食料品を大量に買って帰るフィンランド人が急増している。タリンのデパートの食料品売場に列を作って並ぶ 「バター旅行者」 を,地元の人々は冷やかに眺める。 「あんなみっともないまねは,エストニア人なら絶対にしないね。」