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フィンランド人の古代宗教

フィン・ウゴル諸語

古代の歴史家たちは,ローマの歴史家タキトゥスが,紀元後98年に出た『ゲルマーニア』の中で,バルト地方の北西部で「前代未聞の汚く貧しい」生活を営んでいるフェンニー (Fenni) と呼ばれる民族のことに触れるまで,無文字時代のフィンランド人の文化のことについて何も知りませんでした。タキトゥスが問題にした北の地方には,当時すでに,民族的あるいは歴史的起源を異にするさまざまな人々が住んでいましたが,タキトゥスが言っている未開人が,実際に今のフィンランド人やサーミ人 (ラップ人) の祖先であったかどうかについては,疑問な点が多いようです。

フィンランドに人が住みはじめたころ

最近の考古学の研究によって,今からおよそ9000年前の中石器時代のスオムスヤルヴィ文化の時代から,フィンランドには,途切れることなくずっと人が住んでいたことが明らかになっています。そして,遅くとも新石器時代の櫛文土器の時代 (紀元前4200年~2200年ころ) には,フィン・ウゴル系 (ウラル系) の言語がフィンランドでも話されるようになっていたとするのが,今日の言語学の定説です。鉄器時代 (紀元前500年~紀元後400年) になると,フィンランドには5つの文化圏が成立していました。今日のフィンランド社会でも,その文化的なごりを,はっきりと見ることができます。もっとも重要な文化圏は,ポルヴォーからヴァーサに至る海岸地帯で,「本来のフィンランド」と呼ばれます。この地域では,さまざまな文化が興隆し,今日のフィンランドの個性が出来上がりました。この地域は,フィン祖語の話された地域の中心であり,カレワラ韻律の民詩や農耕技術などもこの地域から広まりました。これらの文化圏を出発点として,農耕を基盤とする生活様式が,狩猟や漁労を基盤とする遊牧的な社会集団を吸収しながら,北や東に広がっていったのです。フィンランドのフォークロアを研究すると,極地,森林地帯,草原地帯の3つの生態圏の文化現象が相互に影響し合ってきたことを示すさまざまな要素が発見されます。

東西の文化圏が出会う場所としてのフィンランド

スカンジナビア人 (スウェーデン人などの祖先) がフィンランドの南西海岸にやってきた青銅器時代には,東西ヨーロッパの文化の影響がぶつかり合うもっとも北の地域としてのフィンランドの地位がすでに確立していました。フィンランド中部では,初期のフィン・ウゴル系の人々の間で支配的であった生活様式,すなわち,狩猟と漁労を基盤とする生活様式が続いていました。フィン・ウゴル系の諸民族の共通の故郷がボルガ川流域のある地方にあったとする仮説は,今日では,おそらく誤りだろうと考えられています。フィン・ウゴル系の人々は,最初から,ウラル山脈からバルト海沿岸にいたるはるかに広い地域に居住していたとされます。彼らの経済的基盤を考えると,彼らが遊牧的な生活様式を営んでいたのは,当然のことでした。

歴史時代にはいってからも,フィンランドが2つの文化圏のぶつかり合う場所であるという事実は変わりませんでした。11世紀以後,キリスト教が,2つのルートからフィンランドへ入ってきました。その1つは,カレリアを経由するルートです。カレリアは,バイキングの活躍した時代にはノブゴロドのビザンチン・ロシア系の教会の影響下におかれていました。カレリア地方は,歴史上のいろいろな時代に,東と西,さらには北と南の文化の架け橋として重要な役割を果たしました。対立する勢力の間におかれたカレリアがとくに苦労をしたのは,ロシアとスウェーデンの間に繰り返し戦争が起こった16~17世紀です。政治的,経済的,宗教的な不和のために,カレリアの人々は分断され,カレリア人の文化圏の境界は東に押しやられました。ビザンチン文化に起源をもつギリシア正教の伝統が,しだいにカレリア人の宗教となりました。こうして,西欧のキリスト教とは対極的ともいえる宗教の共生形態が生まれたのです。

1155年,1238年,1293年の3回にわたり,フィンランドの南西部地方に向けて,布教のための遠征が行われています。何世紀かが経つうちに,キリスト教と異教とが混交した宗教の形態が生まれました。今日,東フィンランドでも西フィンランドでも,キリスト教以前の異教の名残りがはっきりと見られます。東方のキリスト教の伝わった東フィンランドでは,1900年頃まで,牧師が新築の家を清めたすぐあとに,一家の主人が伝統的な儀式を行う習慣がありました。この伝統的な儀式は,家の守護精が新しい住人に対してよい印象を抱くように願って行われたのです。

岩面に描かれた絵画と動物信仰

フィンランドで発見された岩面壁画には,石器時代や鉄器時代の人々の世界観・人生観や,彼らの猟師としての生活が描かれています。垂直な岩壁に描かれた絵は,ヘラジカを中心に据える彼らの世界観を表しています。1978年に発見された33箇所の先史時代の岩面絵画のうちの7割近くは,ヘラジカや人の姿をモチーフとしています。フィンランドの岩面絵画を北ユーラシアの狩猟文化に見られる同様の絵画と比べてみると,後者の特徴とされる動物崇拝やシャーマニズムの伝統に通じる営みが,フィンランドでも行われていたことがわかります。この世界観では,魂がお互いに交流すると考えます。人も動物もそれぞれ自分の守護精をもち,人と獲物の守護精が猟の前後に行う儀式において交流するのです。儀式は,共同体を代表するシャーマンによって行われます。シャーマンは,儀式の中で神がかりの状態にはいると,自ら自分の守護精,すなわち自分の分身となって,獲物の守護精を捜し求めます。動物はその種類ごとに別々の守護精をもち,猟を成功させるためには,求める獲物の守護精にシャーマンがお伺いを立てなければならないのです。猟が済んだあとの儀式は,獲物をその動物の保護者のもとに返してやることによって,今後もその動物が獲物として十分に供給される保証をとりつけることを目的として行われます。

川や湖などに沿った場所に岩面絵画が描かれていることから,これらの場所が獲物を捕まえるのに最適の場所であったことがわかります。絵画は,それぞれの種類の動物の守護精と交わって,その動物を獲物として要求することのできた神聖な場所を表しているのです。神聖な場所にセイタ (seita) と呼ばれる石または木像を据えるサーミ人の習慣が,これとよく似ています。ヘラジカを描いた岩面絵画は,ヘラジカの守護精や保護者を表しています。これらの絵の着色は,猟の成功を祈って,猟を始める前に行ったり,あるいは,今後も猟が成功することを祈って,猟を終えたあとで行ったりしました。人間の姿と思われるものは,動物の精と交わる能力をもつシャーマンを描いたものと思われます。その他の絵は,いろいろな動物の姿や抽象的な形をしていますが,シャーマンを助ける動物を表しています。

口承文芸

フィンランド人の神話や世界観に関する基礎的な民間資料となるのは,フィンランドに古くから伝承されている民詩です。叙事詩『カレワラ』に刺激されて,19世紀から今世紀の初めにかけて,組織的な民詩の収集が行われました。このようにして集められた資料は,33巻からなる『フィンランド民族の古詩』 (Suomen Kansan Vanhat Runot) として,1908年~1948年に集大成されました。このほか,民間信仰,伝説,神話の韻文形式の資料や,呪文や嘆きの詩などの民詩の資料があり,これらの資料のうち未刊のものは,フィンランド文学協会が保管しています。この種の口承文芸の中には神話的なモチーフのものが見られ,これはフィン祖語より以前の時代から伝承されているものと考えることができます。叙事詩的な民詩は,他の民族の古い神話に見られるテーマに対応するテーマをもっています。そのうち,ここでもっとも注目したいのは,天地創造の詩に含まれる宇宙神話,すなわち,英雄のワイナミョイネンが,原始の海に入り,ワシの卵のかけらから世界を造ったとする話です。この詩にはいろいろな変種があって,太古の海底の形成や魚の腹からの太陽と月の解放など,天地創造に関するさまざまなモチーフが取り出せます。フィン・ウゴル諸民族の間に伝承されてきた天地創造に関する最古の神話では,天地の創造者や英雄たちが動物の姿をしていましたが,後の時代になって,人間の姿をもつ創造者・英雄たちにとって代わられます。この創造者・英雄たちのうちでもっとも重要な位置をしめるのが,カレワラにも登場するワイナミョイネンとイルマリネンです。民間伝承では,ワイナミョイネンは,婚姻の保護者であり,儀式を行うことによって自分の目的を達成するシャーマンとして描かれます。イルマリネンは,歴史的起源を異にする2つの要素が結合してできた英雄で,古い時代にさかのぼると神であり,時代が下ると文化的な英雄,すなわち天空を鍛えて造る鍛冶屋とされます。

呪術詩もまた,フィンランド神話に関する資料を豊富に含んでいます。病気治癒の儀式では,病気を,その起源にもどって診断し,今の症状の由来を明らかにします。

ひきつけの起源を表す呪術詩を例にとると,まず序詩の部分で,空に達する巨大なブナの木が太陽と月を覆い隠し,雲の自由な動きを妨げていると語られます。ついで,キツツキを求めて,空と大地を捜し回ります。やがて,小人が出現し,一撃のもとに木を切り倒すと,天の光が再び輝き始めます。この神話が病気治癒の儀式で用いられるのは,木を切り倒すことによってもたらされる結果のためです。すなわち,切り倒されたブナの木が海の中に倒れる際,空中に木の破片が飛び散り,この破片からひきつけが生まれるのです。序詩に出てくるブナの木は,宇宙の木の象徴です。宇宙の木とは,生命の木であり,大地の中心を貫いている柱です。

最初の文献による記録と神話の研究

フィンランドの民間信仰に関する最初の文献は,フィンランドのルーテル派の宗教改革者アグリコラ (Mikael Agricola, 1508-1557) が1551年に出した旧約聖書の詩篇の翻訳です。アグリコラは,この本の前書きの付録として,ハメ地方とカレリア地方のフィンランド人が信仰している神々の簡単な一覧表を添えました。この神々の名簿には,「悪魔」 (piru) という下位分類のところに,ハメ地方の神が11人,カレリア地方の神が12人載っています。ハメ地方の神々は,その後の神話的伝統に照らしてみると,たいへん雑多なものを含んでいます。11人のなかには,ワイナミョイネンとイルマリネンのような文化的英雄,住まいの守護神 (Tonttu),富の守護神 (Kratti),森の守護神 (Tapio),水の守護神 (Ahti) のほか,病気の原因に関する神話に登場する精霊たち,たとえば,殺された子供の幽霊 (Liekkio) も含まれているのです。また,自然の精霊が2人含まれます。森の精霊 (Hiisi) と水の精霊 (Weden ema) がそれです。カレリア地方の暦に登場する神々は10人です。これらの神々は,たとえばある季節の始まりと終りを表したりすることによって,特定の条件のもとでの特定の職業集団の神として現れます。10人のうち,キリスト教伝来以前の時代からいる神々は,至上の神ウッコ (Ukko),ウッコの妻ラウニ (Rauni),および,農耕・牧畜のサイクルの終りに祭られる神ケクリ (Kekri) の3人です。残りの7人の神は,ビザンチン起源なのですが,キリスト教との関係はなくなっています。彼らは,本来ならキリスト教の教会暦の聖人たちですが,宗教上の性格がすっかり失われてしまったので,アグリコラは異教的な神々と見なしたわけです。

アグリコラの神々の名簿は,以後200年の間,フィンランドの民間宗教に関する唯一の文献として重要なものでした。アグリコラのものに次ぐ文献は,トゥルク大学の修辞学の教授ポルターン (Henrik Gabriel Porthan) が1766年に出版した『フィンランドの詩について』 (De poesi Fennica) の第1巻です。1762年のレンクヴィスト (Kristian Lencqvist) の学位論文『古代フィンランド人の理論的および実践的な迷信について』 (De superstitione veterum Fennorum theoretica et practica) や,1789年のガナンデル (Kristfrid Ganander) の『フィンランドの神話』 (Mythologia Fennica) にも,ポルターンの影響がうかがえます。ガナンデルの辞書には,フィンランド語とラップ語の神話のあらゆる人名や概念が,アルファベット順に並べられています。この辞書には解説も添えられているので,キリスト教伝来以前のフィンランドの民間信仰に関する情報源として,アグリコラの神々の名簿にとって代わるものとなり,1835年,レンルート (Elias Lönnrot) の『カレワラ』が出版されるまで,この分野のもっとも重要な著作でした。『カレワラ』は,3つの視点から考察することができます。まず,『カレワラ』は,レンルートによって収集された叙事詩によってフィンランドの神話を書き綴ったものです。第2に,『カレワラ』は,フィンランド人の神話的な空想の表現です。第3に,『カレワラ』は,フィンランド民族の世界観を,レンルートが集大成する形で,明確に述べたものです。

宇宙論

フィンランド人の宇宙論には,北方の諸民族の文化に特徴的に見られるものと同じ象徴の構造があることが,資料からわかります。人の住む地域は,川に囲まれた島と考えられています。大地は円形をしており,天の巨大な丸天井に覆われています。世界の回りを囲む川が,生者と死者を分ける境界です。しかし,死者がこの川を越えて死者の国トゥオネラ (Tuonela) へ渡るという考え方は,フィンランド人に固有な考え方ではなく,東方の神話的伝統に属するものです。北方諸民族の神話では,死者はこの川を北の果てで渡ることになっています。すべてを逆さにしてしまうトゥオネラの恐ろしい滝の向こう側に,鉄の門を構えるポホヨラ (Pohjola「北の地」) の村があります。トゥオネラとは,すなわち,生者の世界を反転させた世界です。ポホヨラの村の門の手前に,天と地が交差する場所があります。ポホヨラの南にあるこの天と地の交差点には,「鳥の国の住人」 (lintukotolainen) とか「天の縁 (ふち) の住人」 (taivaanääreläinen) と呼ばれる小人たちが住んでいます。渡り鳥が向かうのもこの場所とされます。

宇宙は,上界,中界,下界の3つの層に分かれます。この三層構造の考え方は,ユーラシアの民衆信仰のもっとも古い要素に属します。宇宙の3つの層は,宇宙の木によって結び付けられています。宇宙の木というのは,宇宙の中心にある「宇宙の柱」ないしは「宇宙の山」です。宇宙の柱の先端は北極星に接し,この北極星の回りを天が回っています。フィンランド人は北極星をちょうつがいに例えて「天のちょうつがい」と呼んでいました。「天のちょうつがい」にはまた,「北の留め針」「天の守り」「柱の星」「天の柱」などのような呼び名もありました。

先祖の崇拝

死んだ祖先たちを祭ることが,フィンランドの民衆信仰の基本でした。祖先崇拝を示す基本的な要素は,たとえば,11月1日頃祝われるケクリ (Kekri) の祭りのような暦に関わる儀式や,さまざまな通過儀礼などにおいても,はっきりと観察することができます。

ハルヴァ (Uno Harva) は,農耕社会における祖先の社会的役割について次のように述べています。「古代のフィンランド人の信仰において,あの世へ行ってしまった死者たちが非常に重要な役割を果たしていたことを示す証拠はたくさんある。しかし,崇拝の対象となったのは,死者そのものではなく,それぞれの家族の死んだ祖先全体であって,子孫は,祖先の仕事を続け,祖先の希望を実現する任務を委ねられるのである。この習慣こそ,古代フィンランド人の共同体の基盤であり,この点に関する限り,上界の神でさえ,祖先にはかなわなかったのである」 (Harva 1948, 510-511) 。その成員がこの世に住むか,あの世に住むかの区別なく,家族は,一つのまとまりを作っていると,フィンランド人は考えていました。死者の埋葬に関わる儀式は,死者に対する別離の儀礼,移行の儀礼,一族の死者の仲間入りの儀式を執り行うとともに,残された人々の組織を再編成するために行われました。古代のフィンランド社会において,死者には役割が2つありました。死者たちはまず,一族の将来の繁栄を保障し,見届けてくれるようにと,手厚い世話をうけました。死者たちは,他方で,儀式を行わない者とか,慣習的な規範に従わない者を罰すると考えられて,恐れられました。死者の崇拝の儀式は,もともと,備え物を捧げるための木や岩のある場所で行われました。最初に収穫された果物や最初に生まれた家畜の子が,その年の収穫のうちの死者たちの取り分として備えられました。この備え物は義務的に捧げなければなりません。死者の埋葬の儀式や死者を定期的に回想する儀式は,一族の行事として行われました。ただし,ルーテル派の地域とロシア正教の地域とでは,際だった違いが見られます。ルーテル派の地域では,死後3日目に行われる埋葬において,死者がこの世を最終的に立ち去ります。また,死者を回想する儀式は行われません。ロシア正教のカレリアでは,19世紀まで,死者を回想する儀式が墓地で行われていました。死後6週間は極めて重要な期間です。死後6週間目に行われる「6週間祭」 (kuuznedaliset) において,まだ正式に死者の仲間入りをしていない死者 (pokoiniekka) のために,一族は夜中に「最後の婚礼」を執り行い,死者に,あらためて,一族の生きていない成員としての資格を与えます。このほかに,暦に基づいて行われる死者を回想する行事が2つあります。1つは,ルアディンツァ (ruadintsa) と呼ばれ,春,復活祭の後の2番目の火曜日に行われる行事です。もうひとつの行事は,「回想の土曜日」 (muistinsuovatta) と呼ばれ,秋,10月26日の前の土曜日に行われます。また,特別な回想の行事にピールット (piirut) があります。これは,先代の一族の長などのように,たいへん重要な祖先をまつるために行われる行事です。これは一族全体で祝う祭りで,行われる日は決まっておらず,一族が必要と考えるならいつでも行うことができました。

フィンランドの民間宗教で特別な地位をしめていたのは,死者の仲間に属さない祖先で,「落ちつき先のない魂たち」 (sijattomat sielut) と呼ばれました。それらの魂に落ちつき先がないのは,死者がこの世からあの世に旅立つ際に,不適切な儀式が行われたか,あるいは儀式が行われなかったためです。落ちつき先のない魂は,自分に落ち度がないのに,あるいは,自分の罪のために,幽霊として家に現れると考えられていました。

狩猟にまつわる儀式

フィンランドにおける熊祭りがどんなものであったかについて述べた最初の人は,1640年にトゥルク大学を創立したロトビウス司教 (Isak Rothovius) です。司教は,フィンランド人が神話を信じていることを批判し,説教において次のように話しました。「フィンランド人たちは,熊を殺すと,お祭を開き,熊の頭蓋骨に酒をついで飲み,今後も猟が成功し,獲物がたくさんとれるようにと,熊のうなり声をまねた声を出す。」熊祭りに関する資料となる文献には,熊祭りにどのような儀式が行われ,どのような物語詩や呪術詩によって熊の起源に関する神話が語られたかが,詳しく書かれています。この種の因果詩や呪術詩は,熊祭りの最中に,あるいは,夏,家畜を牧地に放す際に歌われたものです。家畜の放牧の際に歌われたのは,家畜を熊から守るためでした。

17世紀の記録によると,熊祭りは,熊を殺す場面,祭りそのもの (殺された熊のための酒盛りで,karhunpeijaiset ないし karhuvakat と呼ばれる) ,熊の頭蓋骨を用いた儀式の三場からなっていました。3つの場は,熊の死,埋葬,復活をそれぞれ象徴しています。猟にまつわる儀礼は,現存する社会秩序や社会組織の保存に重点をおくものであるという点で,死者の崇拝の儀礼と構造的類似性をもっています。死者の儀礼の場合と同様に,熊祭りも「婚姻」 (kuovon häät) と呼ばれて,祭りの舞台では,雄熊には花嫁が,雌熊には花婿が選ばれました。

神と様々な守護精

フィンランドの神話に出てくる神々には,序列がありません。呪術詩においてウッコ (Ukko) が,天の最高の神と呼ばれるだけです。ウッコは,フィンランド語で雷をさす語 ukkonen が示すように,もともとは,主として雷の神でした。アグリコラの神々の名簿には,ウッコ崇拝に関する貴重な記録があります。「春,種蒔きが終わると,ウッコのために祝杯があげられる。これは,ウッコに願いをかけるためである。娘や女たちも自由に酒を飲む。恥ずべき行為も数多く行われるのを,目撃したり,聞いたりする。」アグリコラ自身は,「聖なる婚礼」についての解釈をしていませんが,17世紀の記録をみると,それが何であったかがわかります。

農耕社会には,狩猟社会におけるシャーマンの役割を果たす人物として,ティエタヤ (tietäjä) と呼ばれる予見者がいて,ウッコを訪ねます。ウッコは,雨や嵐の神であるだけではありません。ウッコは,出産,病人の治療,猟の成功をどうしても願う必要があるときなど,さまざまな場面で呼び出されます。

また,アグリコラが平和と気象の神と呼んでいるイルマリネン (Ilmarinen) という神がいます。イルマリネンという名前のもとになっている ilma という語は,「天気」「空気」,方言によっては「嵐」「雷雨」「暴風雨」「空」を意味します。17世紀の記録では,イルマリネンは風の神でした。この記録はイルマリネンという語が,ペルム地方のウドムルト人 (ボチャーク人) の神インマル (Inmar) と同じ起源にさかのぼることを示す最古の証拠です。Inmar は,inm という語がもとになってできた名前ですが,この inm は,フィンランド語の ilma と語源が同じなのです。すでに述べたように,民間伝承によると,イルマリネンは文化的な英雄であり,また鍛冶屋です。

フィンランドの民間信仰では,いろいろな場所にハルティヤ (haltija) と呼ばれる守護精がいます。ハルティヤは,男のことも女のこともあり,ある場所を占拠したり,ある場所の主あるいは支配者として存在する守護精です。守護精には,ふつう,めいめい自分の持ち場があり,その持ち場において力を発揮します。また,たとえば,「森の精」のように,持ち場に対応した名前がつけられています。いろいろな建物や場所にいる守護精は,自分の持ち場で営まれる経済などの人間の活動を監督します。たとえば家と庭を持ち場とする家の精,牛を守る牛小屋の精,リーヒ (riihi) と呼ばれる穀物の脱穀・乾燥用の小屋を持ち場とするリーヒの精などがいるわけです。ハルティヤたちの役割の指定や責任範囲の分担は,やがて,カトリックの教会暦の聖人たちに受け継がれました。こうして,さまざまな経済活動を受け持つキリスト教の守護神たちが,古来のハルティヤの組織に組み入れられていったわけです。

(ヘルシンキ大学教授 ユハ・ペンティカイネン)

更新日 2009/09/22