Copyright © 2000 by Hiromi Komori (Japanese translation)

『ことばと社会』3号 「特集・単言語支配」 (三元社, 2000年6月)

「ロシアの言語状況とその社会的背景 ― ウラル諸言語の場合 ―」


ロシア人が支配する帝国は,周辺部が独立国として離れ,1992年までにはかつてソ連邦の中でロシア・ソビエト社会主義連邦共和国 (RSFSR) であった領域にまで縮小した。その人口は旧ソ連邦全体の約半分である。これがボリス・エリツィンのロシア連邦になった。独立国家共同体 (CIS) は,バルト諸国を除く旧ソ連邦構成共和国がロシア連邦に形式的に再結合したものであるが,実体としては成立していない。CIS 諸国の多くは,ミサイルやルーブルといった共通の遺産を捨て去る過程をゆっくりと辿り続けた。

ソ連邦時代のロシアは下位の単位として,共和国をもてるほど大きくないか,あるいは他民族に囲まれた民族のための自治共和国 (ASSR) を国内に抱えていた。自治共和国は各連邦構成共和国が有する制限された文化的自治権すら欠いており,学校では低学年からロシア語教育が強制されていた。いくつかの民族集団は自治共和国より更に下位に属する自治州を形成していた。広大な地域に分散している北方諸民族の中には特別民族管区 (National Okrug,1977年に自治管区 ― Autonomous Okrug ― に改称)を形成している民族もあった。1991年頃,大半の自治共和国は名前から 「ソビエト社会主義」 の冠をはずすと同時に,一方的に 「自治共和国 (Autonomous Republic)」 から単なる 「共和国 (Republic)」 に昇格した。しかしながら,この変更の意味は確定していない。ロシア連邦は,従来の自治共和国を 「共和国」 という名前で呼ぶことは受け入れたが,これらの共和国が主権を主張することは認めていない。

ロシア連邦内の民族的に異なる様々な共和国,州 (Oblast),管区 (Okrug) は4つのグループに分けられる。それらは地政学的に様々な環境におかれ,それ故,地域ごとの利益も多様である。[ 地図 ]

  1. シベリア諸民族 (全先住民人口は約260万人) は太平洋側に分布している。このグループには,共和国ではサハ (旧ヤクート),ブリヤートならびにトヴァと,旧自治州 (アルタイ,ハカス),旧自治管区 (エヴェンキ,ドルガン=ネネツ,チュクチ,コリャーク) が属している。シベリアの中部から東部にかけて位置するこれらの地域の大部分はモスクワよりも東京に近い。
  2. 北コーカサス諸民族 (約350万人) は黒海付近に分布する。このグループには,イングーシ,カバルディン=バルカル,ダゲスタン,カルムイク各共和国と,ロシアの考えではチェチェン共和国,そして旧自治州 (北オセチア,アディゲ) が属す。この地域は南コーカサス諸国 (グルジア,アゼルバイジャン,アルメニア) と関連が深い。
  3. ウラル (フィン・ウゴルおよびサモエード) 諸民族 (約360万人) は概ね北極洋とバルト海寄りに分布している。このグループに属するのは,カレリア,コミ,マリ,モルドヴィン,ウドムルトの各共和国と4つの自治管区 (ペルミ・コミ,ハンティ=マンシ,ネネツ,ヤマル・ネネツ) である。モルドヴィン共和国のみが,ほんの少しだけバルト海よりも黒海に近い。シベリア諸民族やコーカサス諸民族と比較すると,フィン・ウゴル諸民族のロシアとの融合の度合いは高い。これはモスクワに地理的に近接しており,早い段階で征服されたためである。
  4. いわゆるボルガル諸民族 (約860万人) はチュルク系の言語を話し,ヴォルガ川の大湾曲部に他民族に囲まれて居住している。このグループには,タタール,バシキール,チュワシの各共和国が属する。地図上ではこれらはフィン・ウゴル諸民族の南端の部分と混りあって居住し,歴史的にも共有する部分が多い。フィン・ウゴル諸民族はこの地域では古い住民であるが,ボルガル諸民族はチュルク系ボルガルの侵略に遡る。

ウラル諸民族およびロシアに居住するその他の先住民族の状況は単純ではない。世界中に2600万人を超えるフィン・ウゴル系とサモエード系の人々が存在する。一方,人口的に見るとその大部分がハンガリー人 (1500万人),フィンランド人 (500万人),エストニア人 (100万人) である。独立国家を有しているのはこれら3つのフィン・ウゴル民族だけである。その他の大多数の民族は,主にロシア連邦の領域内に居住する極めて小さな民族である。総計で360万人のウラル民族がロシア連邦に居住している。それは,全ウラル民族の17%以下であり,ロシア連邦の人口の3%である。今日のロシアにおいて,ウラル民族はスラブ諸語とチュルク諸語の海に囲まれた言語的孤島であると言ってよい。

一般に,1900年頃までのロシアの植民地政策は,世界中に進出した西欧の植民政策と似たり寄ったりだった。ロシアの陸路によるウラル地方への植民は,西欧の断続的な「新大陸」の「発見」と比べると領土の周辺地域への連続的拡大といったものであったし,そのため,征服者と被征服者の心理的・地理的差違はより小さかった。文化習慣の違いからくる驚きは少なく,民族間の技術的なへだたりはずっと狭かった(軍事組織という点を除き,差異が全くないことすらあった)し,ときには異族間の婚姻がより広範囲に行われた。心理的・地理的差違は,ロシア人の植民が農耕民族の住む地域を越えて,ウゴル(ハンティ=マンシ)民族やサモエードの狩猟民のところまで進んで初めて目立つようになった。

元々,ロシア人社会は西欧社会より粗野で,その官僚制の腐敗は著しかった。これらの否定的側面は先住民族を扱う際に拡大した。価格政策や信用貸しによってアルコールを押しつけたり,非良心的搾取を行ったりするのは東でも西でも見られる陰鬱な特徴であるが,その結果生じた先住民族の何世代にも亘る負債は,ロシアの農奴制の方に容易に適合した。キリスト教化は,ロシアも西欧も胸をはって語りにくい側面である。宗教は,先住民族の文化と言語を破壊するのに頻繁に利用された。後世になると,寄宿制の学校が民族殲滅の顕著な手段となった。

風向きは,ソ連邦時代の初期における自治領の設置に伴って良い方向に変わった。1920年代の短期間の自治が残した負の遺産は主として,先住民族に対しこれまで寛大でありすぎたという感情を多くのロシア人がもつようになり,その結果,1940年代以降の動きに対して目をつぶってしまったことである。このような自己讃美の見方が存在する社会では,少数民族・少数諸語に対してより寛大になったり,理解を深めることはほとんど期待できない。ロシア人は依然として,自分たちの過去を批判的にかつバランスのとれた形で再評価することができないでいる。無批判の自己讃美の時代が長く続いたあとには,同様に無批判な自己懐疑の時代(たとえば1990年頃)が短期的にやってくる。もしロシア人が,ロシアはかつて(ある意味では現代でもなお)植民地帝国であったということと,そして,植民地主義時代の終わりがかなり遅れてやってきたことを除けば,ロシアは他の多くの植民地帝国と似たり寄ったりであったということを認めるに到れば,事態は大きく好転するであろうに。

先住民族が生存しつづけるか,消滅してしまうかは,無論,その民族の人口によって決定する。その人口は同化によって決定的な影響を受ける。ロシア人による先住民族の同化は何世紀にも亘って行われてきたが,多くの先住民族は比較的高い出生率に支えられてその人口を維持し,なおかつ増大させた。しかしながら,20世紀後半になると,同化が加速し,民族的帰属意識という点で,そして民族語の保持という点で一層顕著に,ほぼ全ての先住民族においてその人口が減少し始めた。ソ連邦崩壊以後の状況下でも同化が継続するとすれば,その同化が自発的か強制的かによって違いが生じるだろう。強制的同化は自由が拡大した状況のもとでは停止するであろうが,他方,ロシア文化のもたらす魅力に自発的に惹きつけられる状況は続くであろう。

自発的同化と強制的同化の間に,第三の型である誘引型の同化があることを認める必要がある。もちろん,その3つの同化のタイプの間には連続性があり,広い意味では同化というものは,それがより高度な文化の魅力であれ,あるいは迫害の脅しであれ,すべて何ものかに誘発されると言ってよい。だが,ここで「誘引型の同化」と定義するのは,大衆の表だった反抗がない状態の中で,先住民族の文化に対してあらゆる面で形勢が不利に転じるとき生じる事態である。もし,ロシア語による中等教育しか許されなければ,生徒に対しロシア文化の受容を強制しなくても,教育を受けようとすれば,結果的にそうならざるを得ない。先住民族の多くの親は,先住民族の言語による教育が以前よりも受けやすくなったにも係わらず,ロシア語で教育の行われる学校を「自発的に」選択し続けている。しかし,この事実を解釈する際には,歴史的背景を考慮する必要がある。もし現在,「教育」と「ロシア語」が先住民族の多くの親の意識においてセットになっているとすれば,これはロシア語に固有の文化的魅力を必ずしも反映するものではなく,むしろ,先住民族の言語による教育が何十年,何世紀に亘って阻害,抑圧されてきた歴史を反映していると言える。先住民族の言語による教育がロシア語による教育に比べて劣等であるように見え,また実際にそうであることは当然の成りゆきである。

ロシアでは1990年から91年の間に,5つあるフィン・ウゴル民族の共和国のうち4つが,共和国の法律がロシア連邦の法律に優越するとする主権宣言を行った。この他,少なくとも7つの共和国が同様の宣言を行った。すべてのフィン・ウゴル民族の共和国において,当該共和国の名を冠する民族は少数派となっているが,その存在が事態に大きな影響を与えている。これらの共和国はいずれもロシア人を人口構成において,また指導者層の中に多数派として抱えている点で共通しており,前述の主権宣言はおおむね当該民族の頭越しに行われたものと考えられる。しかし,ウラル系の民族的組織が創設され,それぞれの民族の権利の確立や民族による教育および出版の復活のために運動している。運動開始当時の水準は哀れなものであった。ソビエト体制は伝統的生活様式を崩壊・抑圧し,多数の人々が連行されたり,永年住みなれた故郷を離れることを余儀なくされたりした。先住民族の言語による学校教育は徐々に姿を消した。ソビエト体制はロシア語を教育と社会的地位のカギとしたのである。民族語の発展が意図的に妨げられたため,ウラル諸民族の多くは民族語を未発達であると見なすようになった。その結果,ロシア語への同化が進み,ほぼ全てのウラル諸語において話者の数が1970年以降減少している。

旧ソ連邦におけるウラル諸民族の人口データを過去4回の国勢調査の結果にもとづいて見てみよう。このデータは,各民族の総人口と,民族語を母語と見なす話者が総人口に占める割合を示すものである。エストニア(エストニア人が居住),ラトヴィア(リーブ人が居住)ならびにウクライナ(ハンガリー人が居住)は,国勢調査が行われた当時ソ連邦の構成国であった。

1959年1970年1979年1989年
人口人口人口人口
エストニア人988,61695.21,007,35695.51,019,85195.31,026,64995.5
フィン人92,71759.584,75051.077,07940.967,35934.6
カレリア人167,27871.3146,08163.0138,42955.6130,92950.1
ベプス人16,37446.18,28134.38,09438.312,50150.8
イジョール人1,06234.778126.674832.682036.8
サーミ人1,79269.91,88456.21,88853.01,89042.2
モルドヴィン人1,285,11678.11,262,67077.81,191,6572.61,153,98767.1
マリ人504,20595.1598,62891.2621,96186.7670,86880.9
ウドムルト人624,79489.1704,32882.6713,69676.4746,79369.6
コミ人287,02789.3321,89482.7326,70076.2344,51970.4
ペルミ・コミ人143,90187.6153,45185.8150,76877.1152,06070.1
ハンティ人19,41077.021,13868.920,93467.822,52160.5
マンシ人6,44959.27,71052.47,56349.58,47437.1
ハンガリー人154,73897.2166,45196.6170,55395.4171,42093.9
ネネツ人23,00784.728,70583.429,89480.434,66577.1
ガナサン人74893.495375.486790.21,27883.2
セリクプ人3,76850.64,28251.13,56556.63,61247.6
4,321,00286.54,519,34384.44,484,35580.44,550,34576.2
リーブ人22643.8
エネツ人20945.5
総計4,550,78076.2

ソ連邦時代の国勢調査はその数字を額面どおりに受けとるべきではないが,多くの場合,それがソ連邦時代の人口統計の唯一の情報源であった。この数字を見ると,ソ連邦においてウラル諸語を母語とする話者の数が急激に減少していることは明白である。エストニア人とハンガリー人は唯一の例外である。ベプス人に関しては,母語話者の実数の増加と言うより,むしろ,1989年までに民族意識の高まりがあったことが理由である。彼らは,国勢調査の際,実際の民族的帰属と母語を敢えて正直に申告したのである。子供たちや若者は,ロシア語のみで教育を受け,ロシア語優位の言語環境で育ったため,母語の能力は極めて低く,ロシアで話されるウラル諸語は消滅の危機にさらされている(調査が示す割合はまず第1に,中高年世代の母語の能力に関するデータを基礎としている)。

言語の将来は,子供がその言語を習得し,かつ習得した言語を保持できるかどうかにかかっている。以下では,この点についてウラル諸語の状況に関する一定の概観を提示する。

セッポ・ラルッカ (Lallukka 1990:198-199) の分析と関連の数字の紹介を続けよう。ラルッカは,この分析の中で,ロシアに居住する4つの比較的大きなウラル民族,マリ人,コミ人,ウドムルト人,モルドヴィン人を取りあげている。ラルッカは以前の分析においては,ソ連邦の国勢調査のウラル諸民族に関する全ての関連データを扱っている。つまり,上述の4民族に加え,エストニア人およびカレリア人についての言及もなされている (Lallukka 1982:60) ので,これら2つの民族に関するデータを同氏の1990年の数字に加えることとする。 最も若い年齢層とその次の年齢層を見ると,民族としてそれほど数の多くないカレリア人において,民族語を母語として使用する割合の低下の度合いが大きい。当時ソ連邦に属していたエストニア人に関するデータは,実際には,人口変動が安定している例として比較のためにラルッカが提示しているものである。ラルッカによる統計的処理法を用いて,上述の諸民族に加えて,1970年の国勢調査データから,ペルミ・コミ人,ハンティ人,マンシ人,ネネツ人の若い方の2つの年齢層における民族語の使用の割合を数字によって明らかにしてみよう(図1参照)。

図1の数字から明らかなように,マリ人,コミ人,ウドムルト人,カレリア人の最も若い年齢層(0から9歳)において,母語としての民族語の能力水準は,1970年には1959年と比較して著しく低下しており,1959年の最も若い年齢層が,1970年までに母語を喪失したレベルにおおよそ位置づけられる。換言すれば,1970年の時点での上述の諸民族の最も若い年齢層における母語能力の低下は,1959年の調査時に最も若い年齢層であった調査対象者の能力が1970年までに低下したところから始まっているのである。エストニア人とモルドヴィン人に関しては,1959年と1970年の最も若い年齢層は,それぞれの水準でほぼ変化はない。モルドヴィン人に関するこの結果は全く予想外であり,その理由は不明である。

1970年における若い2つの年齢層(0から9歳および10から19歳)の母語としての民族語の能力を検討すると,マリ人,コミ人,ウドムルト人,モルドヴィン人では,10から19歳の年齢層の能力は0から9歳の年齢層と比較して若干低くなっていることがわかる。その差はペルミ・コミ人ではかなり小さく,ハンティ人やマンシ人ではかなり大きい。

ロシアにおけるウラル諸語の衰退に関するより包括的な概観を得るためには,各民族の総人口に対する最も若い年齢層の割合を考慮する必要がある。入手可能な資料をもとにこの割合を示してみよう。まず,1959年と1970年の2つの若い年齢層の割合は以下の通りである(ロシア人の同じ年齢層と比較した場合)。

1959年1970年
0 – 910 – 190 – 910 – 19
エストニア人14.114.415.812.1
カレリア人19.610.811.915.6
モルドヴィン人22.914.918.817.9
マリ人28.614.427.020.6
コミ人26.913.523.220.1
ウドムルト人28.014.223.820.5
ロシア人21.915.118.217.5
(Lallukka 1998:92)

比較をさらに進めたいが,公開されたデータが他にないので,0から15歳の年齢層の割合を考察する。

1970年1989年
カレリア人19.616.6
モルドヴィン人27.622.1
マリ人36.528.7
コミ人33.424.6
ペルミ・コミ人34.025.8
ウドムルト人33.125.1
ハンティ人45.533.5
マンシ人44.931.9
ネネツ人44.137.8 – 44.8
ロシア人28.024.5
(Lallukka 1992:10)

上の数字から分かるように,若い年齢層の割合は減少傾向にあるが,ウラル諸民族の大半に関して,その割合は比較的高い状態を保っている(ロシア人のデータと比較)。従って,一般的な傾向として,人口数が一番大きい年齢層において母語としての民族語が最も急速に失われつつあると言える。

北方(極地)のウラル諸語の最新データは「北方少数民族の諸言語-その存続をめぐる問題」 (Shoji & Janhunen 1997) に紹介されている。この本の中で,マイケル・クラウスは,ウラル諸民族とその話者の数に関する信頼性の高いデータを提示している。このデータには,公式の数字,すなわち,旧ソ連の1989年の国勢調査の数字と大幅に異なる点が多い。独自の計算に基づき,クラウスはウラル諸語のうち次の言語は過去2世紀の間に既に消滅したと結論づけた(25-27頁) 訳注1。その言語とは,ユラツ語(19世紀に消滅),カマス語(1989年に消滅),マトル語(1840年頃に消滅),南マンシ語(遅くとも1950年までに消滅)であり,更に,南ハンティ語と西マンシ語も現在までに消滅している可能性がある。もし,消滅していないとしても,今後10年以内に消滅する可能性があるのは,この南ハンティ語と西マンシ語である。2055年以降(現時点から60年後。その子供たちによってはもはや民族語が話されないことが明らかな最も若い年齢層の話者の予想寿命)に関しては,ウラル諸語の消滅が続く見込みは大きいが,同様の予測は困難になる。生き残る可能性をもった民族もいる。すなわち,一般的には民族語の話者は極めて少数ではあるが,子供の話者が存在する可能性があり,彼らが将来いつか生き残っている可能性があるからである。それは,ガナサン語,北セリクプ語,北マンシ語である。そのほかの民族で間違いなく,あるいはおそらく,まだ子供の話者がいるのは森林ネネツ語であるが,その場合でもそのような子供は少数派であり,しかも次第に人口減少が進む,まわりから孤立した地域あるいは集落の中での少数派である場合が多い。これらの諸言語の状況は「危機的である」,あるいは「深刻な消滅の危機にさらされている」と呼ぶことができよう。クラウスは次のように述べている。「北部ハンティのオブドルスク=ヤマル地域では,全ての世代に亘って伝統的話者がかなりの数でまだ存在し,また彼らは集団を作って住んでいる。このことは彼らの言語が,ロシアの北方諸言語の中ではツンドラ・ネネツ語に次ぐ強さをもっていることを意味している。ツンドラ・ネネツ語は依然として多数の話者を有し,タイムイル地方やヤマル地方には存続に充分な大きさとかなりの伝統的強さを備えた集団がまだ存在している。ロシアの状況,特にヤマル地方の産業発展が,この強さの保持に有利に働くかどうかはまだ未知数である。いずれにしても,こうした最も有利な状況にある北方諸言語でさえ,消滅の危機に瀕していると見る方がいいだろう。これらの言語は2100年にはまだ話されている可能性は大いにある。しかしその後どのくらい長く話されるであろうか?そして子供たちが話しているだろうか?」

ソ連邦の国勢調査データにおける母語を話すウラル諸民族の割合に関する数字を見ると,少数民族の母語の放棄の典型的形態,すなわち二言語使用から他言語への移行が目に付く。これはまず第一にロシア語への移行を意味する。言語のとりかえに伴って,やがて完全なロシア化が起こる。なぜなら言語が消滅することは,すなわち民族が消滅することだからである。例えば,ある社会学的調査によれば,マリ人の85%が調査時にまだ母語を話していたとき,マリ人の知識人層の41%はロシア語のみで自分の子供たちと会話し,子供たちにマリ語を教えようとすらしていなかった。この状況は次のように説明できる。1920~30年代の民族意識の目覚めの時代は,1937年のスターリンによる血の粛清によって終わりを告げ,この時,作家,芸術家,科学者,教師,つまり民族の知識人全体が肉体的に抹殺された。残酷な抑圧は少数民族のあいだに,自分たちは,その母語および民族性のために抑圧されるという恐怖と羞恥心を引き起こした。そして,時がたつにつれ,それは多くの民族において,自分たちの民族の将来に対する希望の喪失へと変貌していったのである。

しかしながら,ロシアのウラル諸民族の中で民族意識に目覚めた積極的な人々がいる。これらの人々の多くは,エストニア国民会議 訳注2の例に倣い,非政府系の民族会議を組織した。ウラル民族の国際的な組織も作られ,フィン・ウゴル諸民族の世界集会が2回開催された(第1回は1992年にシクティフカル,第2回は1996年にブタペストで開催,第3回は2000年にフィンランドで開催予定)。ここで第2回大会で採択された決議からいくつかの見解を紹介する。

フィン・ウゴル民族の社会が順調な発展を続けるために,我々は以下のことを必要と見なす。
(1996年の決議より)

今日,エストニア人,フィンランド人,ハンガリー人はその学術的および社会的生活においてヨーロッパへの統合を志向している。ウラル諸語や文化の研究には,また,科学的側面の他に政治的意義もある。なぜなら,ロシア連邦の小さな諸民族のアイデンティティの維持を助けることは,ロシアの発展における民主主義的傾向を支持することになるからである。

ロシアのフィン・ウゴル諸民族の言語と独特な文化が存続できるかどうかは,その民族自身が自らのアイデンティティの保持の問題をどう考えるかにかかっている。それ故,独立国家を有しているエストニア人,フィンランド人,ハンガリー人は,ロシアに住むフィン・ウゴル系諸民族の人々が自分たちの民族的特異性と民族的起源を認識し,自分たちが民族の存続に努力するに値する存在であるということを理解するようになるように,力を貸す運動を展開すべきである。

国連によって提唱され,2004年まで続く「先住民年の十年」はその半分を経過したところである。わたしたちエストニア人は同邦民族の文化のもつ価値を知り,認めるならば,計画的意図をもって破壊されてきたこれらの文化の復興を援助することもまた自分たちの義務であると考えるべきである。

次の国際フィン・ウゴル学会はエストニアのタルトにおいて新しい千年紀の初めの年である2000年の8月7日から13日にかけて開催される。同学会の国際委員会はこの会議の基調テーマを「新しい千年紀の入り口に立つフィン・ウゴル諸民族」と決めた。今のフィン・ウゴル学研究のパラダイムの行き詰まりに言及する研究者が現れ始めた。タルトにおける2000年の国際学会は,新しい千年紀のウラル学のパラダイムの形成に向けての挑戦となるべきである。


更新日 2001/11/27