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『南信州新聞』 2002/1/1 「道の歴史を訪ねてみれば...」

伊那街道の場合


庶民文化の流れる道 中馬の発達とともに

近世に入り江戸を中心に街道が整備され始めると,交通路は大きく変容し,私なのを通る主要道は木曽から塩尻へ抜ける中山道となった。この中山道から伊那谷を南下して三河に向かう脇街道「伊那街道(三州街道)」は,中馬が活躍したことで知られる。

伊那街道は中山道塩尻宿から飯田宿まで天竜川の右岸を南に下り,ここから駒場,浪合,平谷,根羽の各宿を経て三河に入る。通行上の統制が厳しかった中山道と異なり,「田舎道」として商品経済が発達し,中馬による物資の輸送が集中。中馬の本道として栄えた。

中馬とは,宿場問屋を経ずに荷主との直接契約で荷物を運ぶ制度。語源は「手馬」「通馬」「自分馬」など諸説あるが,一般には農民が作間稼ぎのために牛馬を4頭ほど連れて荷物を運び,遠方へ商売に出掛けるものを言った。

通常の街道では人馬の継ぎ立てなど交通の事務を行う宿場問屋に手数料を払うことになっているが,中馬は付け通しのため運賃が安く,しかも早く着いた。このため継ぎ立て専門の問屋と常に紛争が絶えなかったという。

しかし,後に農民の馬に付け通しの自由が認められると,伊那街道は中馬による「塩の道」として,海産物をはじめとする多くの物資が東海地方から運ばれた。飯田を中継地として,内陸地方との物資の流通も盛んになった。

峠の村には中馬が休泊するための馬宿が設けられるようになり,根羽や浪合,平谷では旅籠屋や牛馬宿が20軒余り並んだ時代もあった。中馬宿ををめぐり飲食糧や飼料,薪炭などの物資も大量に流通し,商品経済の発達をもたらした。

また,善光寺や諏訪神社,伊勢神宮,金毘羅神社に通じる庶民の「信仰の道」でもあり,沿道には神仏を祀った碑や道標が今も数多く残っている。中山道が厳めしい武家社会の公道であったのに対し,中馬が栄えた伊那街道は活気のある庶民文化の流れる道だった。

中馬の歴史 発展~衰退

1554(天文23年) 軍用路として街道の整備が始まる
1593(文禄2年) 宿駅制の成立
        飯田城主京極氏が「伊那十六宿」を設置
1622(元和8年) 市附馬高割付の開始
1645(正保2年) 飯田町名残町に伝馬役が命じられ「伝馬町」となる
1648(正保5年) 桜町が設置され伝馬役を負担する
1649(慶安2年) 「伊那街道」となる
1700(元禄13年) 伝馬役の地子米免除
1864(明和元年) 明和の裁許により,中馬慣行が公認される
1870(明治3年) 本陣・脇本陣の廃止
1871(明治4年) 宿駅制度の廃止,中牛馬会社設立
1887(明治20年) 「三州街道」となる
1888(明治21年) 県七道開発により三州街道の修繕開始
1920(大正9年) 三州街道が県道飯田名古屋線となり,自動車が走る

更新日 2002/01/04