報告者は,1996年から,文部省の科学研究費補助金を受けて,毎年夏,ボルガ中流域のマリ・エル共和国(ロシア連邦)を中心におよそ54万人(1989年のソ連邦国勢調査)の話し手をもつウラル系のマリ語の現地調査を行っている。1998年は,7月下旬から8月中旬にかけてのおよそ3週間をマリ語の話されている地域で過ごしたが,そのうちの1週間は,ウラル山脈に近いバシコルトスタン共和国北部を回って,いわゆる東マリ人をとりまく社会言語学的状況を観察した。その時の見聞にもとづいて,マリ人とマリ語をめぐる言語状況について,統計資料や写真を紹介しながら,報告を行った。
報告で「ボルガ・ウラル地域」と呼ぶのは,ボルガ川中流域の都市カザン(Kazan')を中心とする地域で,ロシア連邦の行政区分で言えば,マリ・エル(Mari El)共和国,チュワシ(Chuwash)共和国,タタルスタン(Tatarstan)共和キーロフ(Kirov)州,ウドムルト(Udmurt)共和国,バシコルトスタン(Bashkortostan)共和国などを含む地域で,ウラル系のマリ語(Mari),モルドビン語(Mordvin),ウドムルト語(Udmurt),チュルク系のタタール語(Tatar),チュワシ語(Chuwash),バシキール語(Bashkir),スラブ系のロシア語などが話される多言語地域として知られる。
また,チュルク系のタタール人・バシキール人がイスラム教徒であるほか,ウラル系のマリ人・ウドムルト人のように,ロシア正教化が完了しないうちにロシア革命を迎えたために,固有の土着の宗教を保っている民族も見られ,文化的にも多様な地域である。
マリ・エル共和国,ウドムルト共和国,タタルスタン共和国など,各民族共和国では,それぞれの民族語が,ロシア語と並んで法的には公用語として認められ,新聞が発行され,学校教育でも用いられているとされている。しかし,現実には,若い世代を中心に,ロシア語化が急激に進行しているところを見ると,制度上の建て前と現実との間のギャップは大きいと見た方がよさそうである。たとえば,統計資料では話し手が50万人を超えるとされるマリ語を母語とするマリ人の場合も,都市部を中心にマリ語を習得する子どもたちが減少し,大学においてマリ語を研究している言語学者の子どもたちでさえ,ロシア語の方が堪能であるという状況が一般化しつつある。
ロシアのボルガ・ウラル地域の言語・民族状況は,ソ連邦・ロシアにおける言語政策の理念と実際を明らかにする手掛かりとしても,また,多言語社会のあり方について考察する際の出発点としても,興味深い事例を提供するといえる。