フィンランド語と関わり始めてしばらくしたころ,自分が高校で (1960年代後半) 使った世界史の教科書で,フィンランドがどの程度話題になっているかを調べてみたことがあるが,フィンランドを直接に話題にした記述のある箇所は皆無で,他の北欧諸国と一緒に話題になっていた箇所が,目いっぱい数えて10数行だけだったという記憶がある。私が高校で使った世界史の教科書には,フィンランドが事実上登場していなかったわけだ。
日本との間に直行便が週4便も飛び,飛行機に乗れば10時間の距離になった昨今,フィンランドは,日本からいちばん近いヨーロッパの国であるから,世界地図のどのあたりにある国かの見当がつかない日本人はまずいないと思われる。それでも,大学教育を受けた人が,フィンランドをフィリピンと言い誤るケースがいまだにゼロにならないところを見ると,フィンランドはまだまだ,日本人にはなじみの薄い国と見た方がよさそうであるが,その一方で,フィンランドに対して,一種の憧れにも似たイメージを抱いている日本人が少なくないのもまた,紛れもない事実である。フィランドの枕詞 「森と湖の国」 は,自然の景勝地を愛する日本人ならではのフィンランド観の現れと言える。
日本人の抱くフィンランドに対するイメージがなぜ一般的に高いのか,これはおもしろい研究テーマだが,フィンランド人が 「アジア系」 であると信じている日本人が多いことと関係がありそうな気がする。一方,フィンランドに住んで,フィンランド人と少し深い付き合いをしてみると,隣国のスウェーデンや他のヨーロッパ諸国に対してコンプレックスを抱いているフィンランド人が多いことをはっきりと感じる取ることができる。そのコンプレックスが,フィンランド人があか抜けないとか,フィンランド料理があまりおいしくないとか,その他もろもろのマイナスの評価に由来しているのは間違いない。しかし,もっと奥深いところには,彼らが長らく 「アジア系」 だとされ,また,彼ら自身もそれを文字どおり信じようとしてきた歴史的な背景がある可能性を否定できないことを,日本のフィンランド・ファンが知ったら, 「フィンランド大好き」 という気持ちに多少の陰りが生じるかもしれない。
フィンランド人が 「アジア系」 であると言われるようになった理由は,単純明解である。まず,同じくアジア系とされるハンガリー語や,フィンランド湾の対岸のエストニア人の話すエストニア語とともに,フィンランド語がウラル系と呼ばれる言語のグループに属していること,ウラル系の言語は,トルコ語やモンゴル語が属するとされるアルタイ系の言語グループと親戚関係にあると考えている学者がいること,この2点はよく知られている。ちなみに,日本語もアルタイ系だとする説があって,もしこれが正しければ,フィンランド語やハンガリー語が日本語の遠い親戚である可能性もゼロとは言えない。アルタイ系のトルコ語やモンゴル語は,もちろん 「アジア系」 の言語であるから,親戚関係にあるウラル系の,フィンランド語も,当然, 「アジア系」 ということになる。かくして, 「アジア系」 の言語を母語とするフィンランド人は, 「アジア系」 の民族であるという結論にたどりつく。
要するに 「アジア系の言語を母語とするから,民族としてもアジア系だ」 というのが, 「フィンランド人アジア系」 説の根拠となっていると考えてよかろう。さて,この 「言語がアジア系だから,民族もアジア系」 という,この一見もっともな理屈を世界の他の地域にもっていって当てはめてみると,いささか滑稽なことになる。たとえば,インド人の多くが話すヒンディー語は,系統的には,英語・ドイツ語・フランス語といった西ヨーロッパを代表する言語と同じインド・ヨーロッパ系の言語であることがわかっているが,では,ヒンディー語を話すインド人は, 「ヨーロッパ系」 の民族なのだろうか。また,インド・ヨーロッパ系の言語の代表であるサンスクリット語は,インドの言語であるから, 「アジア系」 の言語である。したがって,サンスクリット語と同じ系統にあるフランス語や英語は, 「アジア系」 の言語であり,ゆえに,イギリス人やフランス人は 「アジア系」 の民族ということになるのだろうか。これは,私たちがふつう抱いている考え方と比べると,ずいぶんと突飛な結論である。
ここで,いや,ヨーロッパ人とアジア人は人種が違うから,肌の色とか髪の毛を見れば,インド人がヨーロッパ系でないことや,フランス人がアジア系でないことは明らかだとする反論がありうるが,この理屈は 「フィンランド人アジア系」 説には,圧倒的に不利である。なぜなら,どんなに頑固な人でも,フィンランド人を一目見たら,ヨーロッパ系と認めざるを得ないからだ。ちなみに,遺伝子研究でも,フィンランド人の多くは,日本人が典型的な欧米人と考える北ヨーロッパ系の白人と人類学的にいちばん近いことが明らかにされている。つまり,フィンランド人は,人類学的に紛れもないヨーロッパ人でる。さらに,宗教の点でも,フィンランドの住民のほとんどはプロテスタントだから,文化の面でも,正真正銘のヨーロッパ人と結論せざるをえず, 「フィンランド人アジア系」 説は成り立たなくなってしまう。
「フィンランド人アジア系」 説の根拠となっている 「フィンランド語はアジア系」 という考え方は,歴史的には,言語の優劣,さらには,その言語の話し手であるフィンランド人の民族としての優劣の問題と結びつけて論じられることが,少なくなかったから,ことはやっかいである。
私はここ何年かにわたって,毎年夏休みに,文部省の科研費で,フィンランド,エストニア,およびロシアのボルガ川中流域にウラル系の言語の現地調査に出かけている。ウラル山脈がアジアとヨーロッパの境界であるという地理的な大陸区分に基づくなら,私はヨーロッパの北東部をかなり広範囲に動いているわけだが,西のフィンランドやエストニアと東のロシアとでは,言語,宗教 (プロテスタントとロシア正教),文字 (ラテン文字とキリル文字),家の建て方,家族・親族・友人との付き合い方,など風俗習慣が大きく異なるのを目の当たりにして, 「ウラル山脈の西がヨーロッパ」 というような大まかな地理的区分が異文化理解にほとんど役に立たないことを痛感している。
ヨーロッパの範囲はどこからどこまでかということが時々話題になることがあるが,私のように,ウラル系の言語という,西は北欧のフィンランドや中欧のハンガリーから,東は西シベリアのオビ川の流域まで広がっている言語群を研究対象としていると,この 「ヨーロッパの範囲」 をめぐる議論はとくに興味深い。たとえば,日本では,ロシアはヨーロッパに属すると素朴に考えている人が多いようだが,当のロシアでは,ロシアはヨーロッパの外にあると考えるのがふつうのようである。また,ドイツ人のマルクスが 『資本論』 で 「アジア的生産様式」 を問題にしたときに思い浮かべていたのは,どうやらロシアの農村だったという話をどこかで読んだことがある。ヨーロッパ人のマルクスにとって,アジアは,ヨーロッパに対する後進地域を指す漠然とした概念として,ロシアを含むものであった可能性は十分ある。
ヨーロッパ人が, 「アジア」 とか 「東洋」 「東方」 ということばを漠然とした意味で使うのと並行した現象として,日本には 「欧米」 というあいまいな概念がある。マスコミで,アメリカ合衆国の体験に基づいて 「欧米のマナーはこうだ」 などと一般化している文化人 (?) を時折見かけることがあるが,北アメリカとヨーロッパを一緒にして違和感を覚えないということ自体,ご当人がヨーロッパをまったく知らない証拠である。日本語の 「欧米」 という概念は, 「欧米人」 が中近東・インド・中国・日本をすべてひっくるめて 「アジア」 とか 「東方」 とか呼ぶのと同じくらい乱暴な一般化であると私は思っている。 「欧」 と 「米」 を区別しない (できない?) 日本人は,中国と日本の区別ができない 「欧米人」 と,知的鈍感さという点において,本質的に同じレベルにあると考えた方がよいようである。
一方,ヨーロッパの中を見ると, 「ヨーロッパ」 = 「大陸部」 と考えて, 「ヨーロッパの国々」 と一線を画していたイギリス人が,長らくECに参加しなかったことはよく知られている。これとは少し違った意味ではあるが,フィンランドも,長い間, 「ヨーロッパ」 に属する国とは見なされていなかったということを知っているのは,かなりのフィンランド通であろう。たとえば,まだ80年代くらいまでは,夏の旅行シーズンに, 「ヨーロッパへ行こう」 というコピーが使われても違和感がなかったくらい,フィンランド人にとって 「ヨーロッパ」 は遠かったし,逆に, 「ヨーロッパ」 の側のドイツ,イギリス,フランスなどから見ると,フィンランドは 「ヨーロッパ」 の外の,どこか遠いところにある国という認識のしかたが一般的で, 「ヨーロッパ人」 のフィンランド認識のあまりのお粗末さに悔しい体験をしたフィンランド人留学生が少なくなかったらしい。
そのフィンランド人が,アジア人であるわたしたち日本人に対して,自分たちは 「ヨーロッパ人」 だと向きになって強調し始めたのは,EU加盟が話題になりはじめた時期で,ついこの間のことだ。それまでは,フィンランド人にとって,フィンランドが 「ヨーロッパの国」 であるかどうかは,決して自明ではなかった。2年ほど前,フィンランドの親しい友人から来た電子メールに 「今度はいつヨーロッパへ来るのか」 と書いてあったので,返事の中で 「フィンランドにはもうじき行くが,ヨーロッパに行く予定はたててない」 と茶化して,気を悪くされたことがある。私にはそのようにしたくなるくらい,フィンランド人の態度の急変がおかしくてしかたがなかった。
フィンランドとヨーロッパの間のこのような関係を理解するためには,フィンランドという国の生い立ちを知る必要がある。フィンランドは,ロシア革命の直後の1917年12月6日に,ロシアから独立したが,独立に先立つ100年あまり,正確には1809年以来,ロシア帝国の属国であった。属国と言っても主権を完全に奪われていたわけではなく,たとえば,公用語はスウェーデン語 (ロシア帝国の言語はロシア語),独自の身分制議会を持ち,独自の通貨や郵便切手なども通用する一種の自治領であった。また,宗教の点でも,住民のほとんどがスウェーデンと同じくルーテル派プロテスタントであり,ロシア正教を国家の宗教とするロシアとはまったく別の文化圏に属していた。
ロシア領になってもスウェーデン語が公用語として使われていたのは,フィンランドが,ロシア領になる前の数世紀にわたってスウェーデン領であり,19世紀を通じて支配層がスウェーデン語系であったことによる。このため,ロシア領になって以後も,フィンランドは相変わらずスウェーデンと密接に繋がっていた。今日のフィンランドで,住民の6パーセント程度が話しているにすぎないスウェーデン語の法的地位がフィンランド語と対等であるなど,スウェーデン語系の住民の相対的存在感が人口比と比べて格段に大きく感じられるのは,このような歴史があるためである。
地中海世界にならって 「バルト海世界」 を考えるなら,バルト海世界は,ゲルマンとスラブの間の覇権争いの舞台といえる。ここでゲルマンとは,18世紀まではスウェーデンであり,19世紀の後半以後はドイツである。スラブとはもちろんロシアである。この対立は,西のプロテスタントないしカトリックに対する東のロシア正教という宗教的な対立でもある。
ここ数世紀の歴史を振り返ってみると,バルト海世界における西のゲルマンと東のロシアの勢力のバランスは,双方の間で振り子のように揺れを繰り返している。たとえば,バルト3国は,比較的早くからドイツやスウェーデンの影響下にあった地域だが,18世紀はじめには,ロシアが勢力を伸ばしてロシア領となった。しかし,20世紀はじめのロシア帝国の崩壊によって,ロシアが弱まると,バルト3国はそろってロシアから独立するものの,第二次大戦でドイツが敗退すると,ソ連邦と名を変えたロシアに再び吸収されるという運命をたどっている。さらに,1990年代の初めにソ連邦が崩壊して,バルト3国が再び独立を勝ち取ったことは,私たちの記憶に新しい。新生バルト3国は,今度は,こちらもソ連邦崩壊 (=ロシアの衰退) のおかげで民族統一を果たしたドイツの方に顔を向けて経済的な絆を強め,政治的・経済的混乱を続けるロシアには背を向けつつある。
マルクスがドイツ人であり,そのマルクスの政治思想を現実に適用しようとしたのがロシアであったというのは,このような歴史的文脈で見るとおもしろい。マルクスの政治思想は,ロシアにとっては先進地域 「ヨーロッパ」 から入ってきた新しい思想であったはずである。その新しい思想を武器に,ロシアをヨーロッパの舞台に登場させようという意図で行われたのが,ロシア革命であったというふうに考えることはできないだろうか。そう考えてみると,ロシア革命は,日本の明治維新に相当する歴史的役割を果たすべく行われたものとみることができるのではないだろうか。もちろんこれは,歴史学の通説でないことは百も承知しているが,そう考えてみることによって,一見したところまったく違うように見えるロシアと日本のここ1世紀ほどの歴史に,実は,なにやら深いところで共通性があるのではないかという気がしてくる。つまり,最終的にたどり着いたところはまったく違ったけれども,ヨーロッパの先進国に追いつこうとして 「西欧化」 に躍起になってきた後進国としての日本とロシアの共通の姿が見えてくるのではないだろうか。
フィンランドが 「ヨーロッパ」 の国であるかどうかというテーマも,今述べたような歴史の大きな流れの中で見ると結構おもしろい。第2次大戦においてソ連邦と戦ったフィンランドは,敗戦して東カレリアの割譲を余儀なくされたものの,バルト3国とは異なりソ連邦に再吸収されることはなかった。しかし,戦後は 「フィンランド化」 というレッテルを貼られてしまい,フィンランドがいくら中立を叫んでも,西側の諸国からは,ソ連邦の準属国とみなされる時代が続いた。フィンランドのEU加盟も,バルト3国の独立回復と同じベクトルに沿った現象であり, 「ヨーロッパ」 と 「ロシア」 の間を振り子のように揺れ動くはざまの地域の運命として眺めてみると,フィンランド人のものの考え方の普段は見えてこない側面がいろいろと見えてくるような気がする。
フィンランドの首都ヘルシンキの大聖堂前の広場に立ち続けるロシア皇帝アレクサンドル2世 (在位 1855-1881) の銅像は,ロシアとの深い歴史的絆の象徴である。冷戦時代までは,ソ連邦の影響圏におかれて東を向き, 「ヨーロッパ」 に背を向けることを余儀なくされていたフィンランドが,70年間続いたソ連邦が崩壊してヨーロッパの政治的な力の均衡が大きく変化すると,EUに加わって 「ヨーロッパの国」 となった。ロシア革命と第2次大戦の間の短い期間を除いて,19世紀初頭以来ずっとロシア (アジア?) の方を向いていたフィンランドが,200年ぶりに 「ヨーロッパ」 の方に顔の向きを変えはじめたのであるから,これはフィンランド人にとって,180度の歴史的な転回である。